たそがれ
手元に携ふ提灯の、はかなき灯りにでも頼らねば心許無い闇夜の始まり。
金物屋のある角を曲がれば、通りは一段薄ら寒く、如何にも不気味で恐ろしい。
時折行き違ふ人の顔も上手く捉えられず、おっかなびっくり「誰そ彼」と声を掛けては、其の返事に安堵の息を零す。
―誰そ彼。
あゝ、廻船問屋の旦那ですかい。
―誰そ彼。
あゝ、今度は左衛門長屋おみつさん。
そうしてこうして互いに成瀬川の土左衛門に成らぬようにと冗談めかす内に気も和らぐ。
ほうら、其処の四辻を西へ曲がりゃあ我が家までもう暫し。
先刻より幾許軽やかな足取りで
叉路に差し掛かった其の瞬間、はたと気付く。
誰か居る。
西の角に佇む其の人影は、灯りも持たず立ち尽くすばかり。
忘れかけた寒気が突如と舞戻り、慄く声が漏れ出そうになるのを慌てて押し込める。
―…誰そ彼。
恐々投げ掛けた情けない声に返事は無い。
手元の提灯掲げて其方を照らせど、奇妙な程薄暗く、
其の相貌捉える事は叶わない。
ようよう眼を凝らして、其の身に着けた衣から女人であるだろう事だけは分かるが微動だにせぬ其の様、あゝなんとも不気味な。
触らぬ神に祟り無し。
成る丈近寄らぬよう目の前を通り過がろうとした其の時、全身の毛穴が開き、冷汗が噴き出す。
影が、無い。
女の影が、無い。
照らすは頼りなく揺れる提灯のみ。
見逃しても仕方なし。
されどそうではないのだ。
確かに、無いのである。
金縛りにあったかの様に女の目の前で足が竦む。
早く此の場を離れねばと、そう思ふのに動けぬ。
言うこと聞かぬ身体とは裏腹に慌しく警鐘鳴らす頭の中で誰かが囁く。
暮れ果つ逢魔が刻。
四辻には気を付けな。
其処は常世と現世の交わる場所。
人ならざる者に拐かされちまわぬよう。
キヲツケナ…
身体中が震える。
―…誰そ、彼、
助けを呼ぼうと開いた筈の唇から漏れ出たのは、何故か先刻と同じ問い。
か細く震えた蚊の鳴くような其れに、矢張り返答は無い。
答の代わりに砂の擦れる音が不気味に響く。
女が一歩、一歩、緩慢な摺足で、然し確かに、にじり寄って来るのだ。
上げる事の叶わぬ悲鳴の代わりに、ひゅぅっと喉が鳴る。
動けっ、動けっ、頼む動いてくれっ。
どれほど心の内で叫べど身体は一向に言う事を聞かず、其の場に縫い付けられた儘肌を粟立たせるばかり。
僅か身動げば触れてしまう程近付けど、如何したって女の顔は見えず、あまりの恐怖に心失せそうになる。
そうして女は影を、私の影を、踏んだ。
× × × × ×
一等冷えた風が、地面に転げた灯火を拐い、辺りは暗闇に包まれる。
暗闇の中には何も残っていなかった。
おわり